銅鐸と銅戈の埋納
弥生時代の青銅器は銅戈や銅剣、銅矛などの武器と銅鐸、それと銅鏡が主なものです。いづれも日本列島には鉄器とほぼ同じ頃大陸から入ってきました。時代的には稲作と同時期とみられ、稲作の始まりが様々な研究成果でどんどん遡っている今、青銅器もそれに合わせるようになっています。柳沢遺跡ではこれらの青銅器のうち銅鐸と銅戈が意図的に埋納されたことを示す形で出土しました。これは稲作と関係する祭祀に使われたものがなんらかの理由で使わなくなり、各集落、またはクニに相当するような単位なのかは定かではありませんが、それらの地から柳沢に集められたものを埋納したと考えられています。というのは柳沢はまとまった住居跡が見つかっておらず、また稲作に適するほどの耕地がなく、しかも火山灰土でで土地は痩せていたので大きな集落ではないと考えられました。にも関わらず、大きな集落の首長級の人物がが埋葬されるような礫小木棺墓が多くの副葬品ととも多数見つかっています。柳沢は善光寺平の最北端でランドマークとしての独立峰高社山と千曲川のほとりという限られた場所として栗林文化を作ったと考えられる弥生人たちにとり「聖なる山」と「聖なる川」のあるところで歴代の首長または「王」と呼ばれるような人の墓が作られた可能性があります。すなわちこの周辺の弥生人にとって柳沢は縄文あるいは石器時代からの「いにしえの地」ではなかったのかと思われます。
それではなぜ埋納しなければならなかったのか、それは「銅鐸や銅戈などの宝器を使い稲作の祭祀をする集団」(銅鐸族という言われ方もする)にとって、なんらかの圧力や精神的な変化があったのか?北九州、出雲、畿内の勢力などそれらのヒントになる可能性も考えられます。
また柳沢銅鐸は近年卑弥呼の墓ではないかとされ、邪馬台国の有力な候補地とされている纏向遺跡の銅鐸より製造時期が100年も前だということもわかっています。どのような経路で誰がこの善光寺平にもたらし、祭祀の仕方を教え、さらに祭祀をやめることになったのか謎は尽きません。
埋納の状態と手順
1つの埋納抗に1個の銅鐸と8本の銅戈が土の中に直に埋められていた。大型の銅戈を両側にして短いものを挟むようにしてあり、全ての銅戈は刃を立てて「鋒」(切っ先)を千曲川に向けてあった。
手順としてはまず穴を掘ってそこをマウンド状に盛り土をし、倒れないよう1〜4号の銅戈を刃を立て平行に置く、周りの壁に押し付けるようにそのほかの銅戈を間に土を入れながら同じく刃を立てて置く。銅鐸も同じように盛り土をしたところに銅戈と同じ高さになるように置かれていた。釣り手である「鈕」を南に向けて鐸身部をほぼ水平に置いた。
千曲川に刃を向けたのは何か意味があるのか、たまたまなのかはわからない。もしかすると川の氾濫を鎮めるというような「祈り」のようなものと関係があるのか、または別な勢力集団との結界を意味するものなのか。