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2019-09-30

銅戈、銅鐸埋納の背景。栗林式土器文化・社会


柳沢遺跡のある中野市には、弥生時代の遺跡が千曲川に沿って30箇所近くある。そのうち栗林式期の遺跡は、継続期間が土器型式
で1型式あるいは2型式分にとどまるものと、全期間にわたるものに大別できます。中野市では未だ小規模なものが多く集落の様相が明確ではないものの拠点集落らしさを示す環濠の可能性や大溝、武器形石製品の集中が見られる。武器形石製品は柳沢遺跡の銅戈と同じ青銅製のものを忠実に模した銅戈形石製品1点と変形の進んだ変形銅戈形石製品2点と有孔石製品1点が出土している。これら石製品の出土地点は狭い範囲に集中している。

墓制が示す地域的なまとまり栗林式土器文化・社会の墓制として、木棺墓、土坑墓、礫床木棺墓がある。これらは柳沢遺跡を境にして、下流(飯山市域)では木棺墓や土坑墓が優勢であるが、上流(中野・長野市域)では礫床木棺墓が優勢である。墓制の採用を集団帰属意識の反映と見れば、柳沢周辺を境界とした地域的なまとまりが見えてくる。

柳沢青銅器に関わる地域をめぐって北の境が柳沢周辺であるとして、南の境はどこに置けるのだろうか。長野市北部には、拠点集落とされる中俣遺跡があるので、おおよそ現在の中野市域が善光寺平北部におけるひとつの地域的なまとまりと見るのも不可能ではない。その場合、問題になるのは当該地域における拠点集落である。有力な候補である栗林遺跡の調査・研究が鍵となろう。

2018掘るしん「柳沢遺跡10周年」資料、「地方の弥生文化より」


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