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2019-07-30

柳沢遺跡はいつ頃なのか



柳沢遺跡が存在した時代をわかりやすく表にしてみました。銅鐸と銅戈の製造・搬入・埋納はおおよそこの時期という目安の表です。
柳沢遺跡発掘から10年が経った昨年(2018年3月)、地元中野市でその後の発見や研究成果についての報告会がありました。その資料からの抜粋です。
弥生時代は子供の頃教科書に載っていたのは西暦0年を挟んで500年から600年ということでしたが、稲作の水田跡と思われる発見が相次ぎ、今では紀元前800年〜1000年ぐらいまでさかのぼるようになり、1,000年以上続いたことになっています。
縄文時代は約12000年から14000年前ぐらいだと考えられています。縄文中期のピーク時には26万1千人の人口であったとされています。
その後、縄文晩期に78,000人(ほぼ旧石器時代の最後と同じぐらい)まで減少したといわれ地球規模の寒冷化が原因と考えられています。弥生の初期はまだその寒冷化の影響があったということです。そして柳沢遺跡の頃、弥生時代中期には気温も上昇し日本列島では60万人になったということがいわれています。縄文時代は東日本が多かったのですが、この時代になると渡来人などの増加で西日本の方が人口が多くなっています。
柳沢遺跡で発掘された青銅器は北九州から畿内の間の西日本のどこかで作られ、この柳沢に搬入され祭祀に使われ、最終的に破壊されて埋納されました。その間ほぼ200年ぐらいの期間があったと考えられるようです。埋納されたころ、またはその後に中国の文献によると「倭国が百余国に別れた」ということになります。
この北信濃で青銅器が使われたのは栗林式土器の時代、つまり弥生時代中期後半のことです。
柳沢遺跡発掘の後、全国で弥生時代青銅器の発見や研究が進み、中野市内でも同時代の遺跡の調査も増えているようです。
この栗林式土器の時代、長野県で作られた石斧が北陸・関東へ運ばれ北陸の玉が長野県へ大量にもたらされています。また埼玉の前中西遺跡で見つかった石戈は柳沢遺跡で発掘された5号銅戈の特徴を石で表現されており、西日本から伝わった青銅器による祭祀の文化を関東へ伝えていた様子も明らかとなってきました。

柳沢遺跡発掘調査報告書刊行5周年記念展示会「掘るしんin中野」2018.3:主催/長野県埋蔵文化センター、共催/中野市教育委員会 資料より

参考:2019.6.25 科学技術振興機構のニュース記事より

縄文人由来Y染色体を用いて推定した集団サイズの変化。
縄文時代晩期から弥生時代にかけて縄文人の人口が減少したことを示している。(提供・東京大学)

約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことが明らかになった。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられる。研究グループによると、その後人口が増加したのは、気候が再び温暖化し、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられるという。

縄文後期の人口減は遺跡の発掘などで推定されていたが、遺伝子解析からも裏付けられた形だ。
https://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2019/06/20190625_01.html

 


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