礫床木棺墓群
柳沢遺跡では小石を敷き詰めた上に木棺を置く埋葬形式の「礫床木棺墓」が見つかっている。これら礫床木棺墓群は、東側(高社山側)から西側(千曲川側)に向けて傾斜する緩斜面の尾根状に若干張り出す場所に位置し、18 基の礫床木棺墓が検出された。礫範囲同士の切り合いは認められず、埋葬部に土器を副葬しない。
長野盆地北部の栗林遺跡では礫床木棺墓と木棺墓の両者が存在し、異なる墓域を形成している。柳沢遺跡を境に上流側(長野盆地側)は礫床木棺墓が中心となり、下流側(飯山盆地側)は木棺墓が中心となる。柳沢遺跡の墓域はすべて礫床木棺墓である。墓制的にみると柳沢遺跡と栗林遺跡の集団には共通性が認められることになる。
1号礫床木棺墓の規模は、埋葬部と礫集積帯を合わせて墓群内で最大であり、長野県内における当該期の礫床木棺墓の中でも最大級となる。また、管玉の出土量は県内における同時期の墓の中では最多であり、1号礫床木棺墓は墓群内のみならず、県域に範囲を広げたとしても突出した規模と副葬品を有する
本墓群のように埋葬施設が一定の間隔をあけて整然と並ぶ類例は東大阪市の巨摩遺跡1・3号墓が揚げられる。巨摩遺跡を検討した大庭重信氏は、これらの墓群を「あらかじめそこに葬られることが予定されていた成人を計画的に埋葬」した「計画型」の墓群と特徴づけた。墓群の被葬者として、近親関係に基づく生前の緊密な関係だけでない「より広い範囲から選別されていた可能性」を指摘している 。巨摩遺跡には柳沢遺跡の1号礫床木棺墓のような大型墓は存在しないが、計画的な配置という点では共通すると考えられる。
柳沢遺跡が青銅器の埋納地として選ばれた理由は、長野盆地のどの集落からも離れた土地で、かつ広範 囲から共通して認識できる場所として選ばれたのではないか。具体的には高社山というランドマークが存 在する点、千曲川で仕切る長野盆地と飯山盆地との境界をである点、などがあげられる。高社山は長野盆地の南部に位置す る千曲市姨捨からも認識できる。姨捨から柳沢までは40km 程離れている。また長野盆地を千曲川沿いに 北上する場合、柳沢遺跡周辺を経由しなければ飯山盆地を経由して上越方面に向かうことができない。逆 に日本海側から千曲川に沿って長野盆地に向かうと、山あいを抜けて最初に広大な平地が見渡せるのが柳 沢である。 このことは県内最大級の1号礫床木棺墓を有する6A区礫床木棺墓群が柳沢遺跡に存在する理由として も考え易い。現状では1号礫床木棺墓の被葬者は柳沢遺跡の近接地域では想定することができず、遺跡か ら離れた場所に拠点を置く有力者が埋葬された可能性が考えられる。
青銅器を入手できる有力集団と県内最大級である1号礫床 木棺墓を構築した集団は同じである可能性が強い。 柳沢遺跡は長野盆地の栗林式期を通じて集団共通の墓群として長期に渡り認識され続 け、青銅器の埋納場所として選択されたと考えられる。調査区内において青銅器埋納坑からほぼ真北に6 A区礫床木棺墓群が位置する点も両遺構の性格を考える上で無視できないものがある。 以上、青銅器を所有・埋納した集団と6A区礫床木棺墓群を形成した集団について考えを述べた。現状 では東日本で青銅器がまとまって出土した遺跡が柳沢遺跡だけであることや、盆地内各地点の集団の様相 を詳細に把握できない中での考えである。(長野埋蔵文化センター「柳沢遺跡調査報告書」より)
礫床木棺墓
1号礫床木棺墓の管玉